=-= 卵 =-=
砌えみこ
男が女の住む家に泊まったのは、その日が初めてだった。
それどころか、女というものと寝たのも、その日が初めてのことだった。
セックスが終わった後の軽い倦怠と高揚、加えてセックスそのものが未知ではなくなったことへの小さな満足に包まれながら、薄く清潔なシーツの下で、戦争という実用に耐えられるよう鍛えられた筋肉のついた体を横たえている。
さっきまで隣に女がいたのだが、今は一人。だがベッドの中にはまだその体温が残っており、男はそのことに安らぎらしきものを覚え、誰かと一緒に寝るということの意味を少しだけ知った。
不意に、男の嗅覚をコーヒーの香りが満たす。
どうやら、ベッドを出た女は、キッチンで朝の用意をしているらしい。コポコポ。コーヒーがサイフォンで沸き上がる音。
・・・・・・・・・自分のための朝食、そんなことに幸せを感じるのも、新しい感覚だった。
軍人であるその男は基地内の官舎に暮らし、軍の仕事を請負っているとはいえ、軍人ではない女は基地からほど近い場所に、一軒家を借りていた。
一人暮しに一軒家は贅沢な気もするが、人口は減り、土地は余っていた。先年のコロニーの残骸で荒れ果てた土地では、あったが。
「ねぇ、卵料理は何がいい?」
キッチンから顔をのぞかせた女が聞く。
女の顔にかかる金髪がまだ乱れたままなのは、ベッドを共にした気安さからだろうか。仕事の時もデートの時も、そういった隙は見せないのに。その仕事に対する真摯さが、二人の間を取り持ったともいえるし、それで普通だと思っていた分、妙な新鮮さを覚えて体が疼く。
それに、女はパジャマの上だけをとりあえず着たという姿で、太ももと膝頭の真ん中あたりの裾から、ほの白い足が健康そうに伸びていた。いつも見なれている基地内の男たちの日に焼けてごつごつした足と違う。・・・美しい。
「ね・・・聞いてるの?・・・スクランブル?・・・ボイルド、フライド、それともオムレット?」
君に見とれて聞いてなかったよ、とも、卵より君が食べたい、とも、言えるような男ではない。しばし考えこむフリをしてから、注文する。
「オムレット。バターだけがいいな。」
「はーい。」
砂糖なみに甘く聞こえる女の声。
少しして、ジューっと響きとバターの匂いがひろがり、この朝、初めての空腹を覚えながら、男はベッドを出る。楽しげなキッチンの脇を通りながら、その光景の向こうに、ふと別なものが浮かんで男は戸惑った。
(・・・あの男にも、・・・・・・・・・)
だが、それ以上を考えてはいけないのだ。バスルームで顔を洗って頭をすっきりさせようと、男は頭を振った。
冷蔵庫から取り出した卵をボウルに三個ほど割り入れながら、女はほんの少しの胸の痛みと共に思い出していた。初めての朝、男より早く起きて、こうして朝食を用意するのが夢だった。・・・少女の頃の。
だから、それを実行しようとしたのだが、
(あの人は、私を絶対泊めてはくれなかった。)
『けじめがないのは、性に合わない。』
その言葉に、うまく言い返せなかった18歳の自分。言い返すと嫌われそうな気がして恐かったあの頃。甘えといたずら心と腹立たしさと、形で現さずにいられなかった愛から、それならばと早朝に押しかけて、手料理を用意したこともあった。
インターホンで私の声を聞き、少し慌てて玄関のドアを開ける瞬間。・・・あの人の顔に浮かんでいる表情を想像して想像して想像して、・・・迷惑そうだったら?喜んでる?・・・・・・・・・本当に私のことを愛しているの?
「・・・いけないっ!」
オムレットは、少しふんわり感が足らないものに仕上がった。これは自分用にしようと、女はまた卵を割る。
会社の寮で暮らしていた。上手に作れるはずもないのに、ただ作りたかった。なのに何がいいかと聞くと、『ハード・ボイルド・エッグ』と言った。・・・・・・・・・料理した気にもならなかった。悔しさに自分用にオムレットを作ってアピールした。これぐらいのことできるのよ、と。
・・・女が目を瞬いた時、涙がこぼれた。いつの間に、目の縁にたまっていたのだろう。頬を流れるではなく、作りかけのオムレット中に、それは落ちた。女は慌てて涙を拭き、できあがりを手早く皿に移した。
小さなテーブルに、ニ脚の椅子。真ん中にガラスの一輪挿し。黄色い花。ランチョンマットを敷いて、ちょっとあらたまった風。クロワッサンとジャムとコーヒーとそしてオムレット。
バスローブ姿の男と、パジャマの上だけの女。照れくささはどうしようもないが、それでも向かい合って席につく。見合わせる顔。それもまた、それだけぶんの幸せ。
女は最初に作ったオムレットを自分の前に、後のを男の方に置く。・・・後のがキレイにできたから、・・・・・・・・・だから置いたのだが、男が右手に持ったフォークが、皿に伸びようとした瞬間、ひとつの現実が急に頭の中をいっぱいにした。
(あの人のために、流した涙が入ったオムレットを、食べさせるの?・・・・・・・・・だめ!!!)
「待って!」
「・・・え?」
それね、ちょっと焦げちゃってるから、・・・そんなの気にしないよ、たぶんありふれた会話。でもどこかぎこちない空気。それは初めての朝だからなのか、そしてまたいつか同じ過ちを繰り返すのだろうか、この先に待つのは別れ、それとも永遠の愛を誓って、子供に囲まれて、二人で年を重ねていくのだろうか。
男も女も、先に何かを見ようとしていた、・・・見たかったのかもしれない。だが、まだ見えなかった。それでも皿に載ったオムレットは、二人それぞれの口に運ばれていった。
END
Copyright (C) 1999-2003 Emiko Migiri all rights reserved.